日本の人口減少より中国の人口減少のほうが何倍も大変そうだなーと眺めています
どうも、ノスクちゃんです。
建築というのは生活に欠かせないわけで、歴史は非常に古いのですが
寺院建築(お寺)をはじめ、様々な建築の技術は古くは中国から伝来してきました。
その後日本でどのような変化をしたのか。それにはどのような背景、狙いがあったのか。見ていきましょう。
宮殿が違う
中国の最高建築とは
中国の首都・北京の中心地には、大きくて煌びやかな宮殿がそびえたっています。
これは故宮という宮殿で、別名の紫禁城や、正門である天安門などの名前も一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
また、韓国にも、首都・ソウルの中心に景福宮という宮殿が鎮座しています。
それぞれ国の中心に見せびらかすように建っているのですが
では、日本はどうでしょうか。
東京にこのような宮殿は?京都には?
これが日本と中国の違いなのです。
古代の日本には宮殿があった
なんと(710)大きな平城京
鳴くよ(794)ウグイス平安京
などはお馴染みのフレーズですが、この平城京や平安京こそが、今の中国や韓国にある宮殿と同じ役割、似たような形式を持っていました。
都の中心に宮殿が建つスタイルは、上のふたつ以外にも、藤原京や長岡京などでも見られ、昔むかしは中国のような様式であったということがわかります。
いつから中心に宮殿を置かなくなった?
では、いつから宮殿を据える文化がなくなったのか
時代は鎌倉時代の初め頃です。
平安時代後半、火事により平安京が焼失してしまいます。
これまでも何度か宮殿が燃えることがあり、そのたびに大至急復興をしていました。
しかし、復興にとりかかるころに平家が大寺院を燃やす南都の焼き討ちが起こります。(詳しい記事はコチラ)
平安京と大寺院の両方が焼失したとき、真っ先に復興させたのはどちらだったのか。
先に復興したのは南都の大寺院だったのです。
さらに、鎌倉に幕府を開いた源氏は、本来宮殿を建てるところに鶴岡八幡宮を建てます。
その後も宮殿は復興されず、このときを境に都の中心に大きな宮殿を建てるという文化がなくなります。
これが、日本と中国の分岐点です。
軒廻の技法が違う
すべては野小屋から
日本独自の技法が生まれます。
それが、野小屋です。
中国では、下から見た屋根の勾配と上から見た屋根の勾配は同じです。
絵で描くとこんな感じ。(下手でごめんな)
しかし、日本では、屋根を二層にすることで雨漏り防止や修理をしやすくしました。(下手でごめん)
これは湿気が多い日本ならではの進化といえます。
また、この野小屋はふたつの屋根の間に支える部材を入れることができたため、垂木や組物などに強度があまりかからず、それらを自由な形にできることも、その後の日本的な発展に大きく貢献します
精度が上がったことによる技法の進化
また、12世紀から14世紀にかけても日本の建築技法は大きな進化を遂げます。
まず、精度が上がります。
木を切ったり削ったりという加工性が上がり、計画した通りの寸法で建物を建てられるようになります。
すると、垂木を等間隔に並べたいな、と考え始めます。
垂木↓
というのも今までは、柱から柱までの距離を整数尺(5尺とか8尺とか)で決めて、そこから垂木をつけていたので、垂木が等間隔にならないことが多かったのです。
しかしこの時期から、先に垂木の間隔を決める。それから垂木何個分のところに柱を置く
という技法が出始めます。
こうすることにより、垂木を等間隔に並べることができます。
この技法を枝割といいます
この技法は急速に日本全土に普及しますが、中国では全く見られない技法です。
枝割のさらに進化版
枝割は柱だけにとどまらず、組物の位置も決めることになります。(まじ下手でごめん)
このように、巻斗(一番上の小さい斗)内に2つずつ垂木が収まるように計画されます
この技法を六枝掛(ろくしがけ)といいます。
枝割も六枝掛も、野小屋があったからこその独自の技法といえます。
まとめ
他にも垂木が円柱か角柱かでの違いなどもあります~(中国は円柱)
以上です~