城の歴史を学びながらも、政治の歴史や有名武将の思考などが読み取れるので、良いシリーズだなーと自画自賛しています。
どうも、自画自賛は嘘です。ノスクちゃんです。
偉そうに歴史を語ってるノスクちゃんですが、昔は歴史がめちゃくちゃ嫌いで。日本史・世界史の定期テストで何度も学年最下位を獲得しているほどです。驚異の二冠王です。
だって、中学高校のプリントの穴埋めする授業じゃ面白くなかったんだもん。 穴埋めが面白いのはクロスワードパズルかナンプレだけだよ。知らんけど。
でも、城を見ることで、その時代に武将たちは何を大切にしていたのか。どんな時代だったのかが順を追ってわかるので、城の歴史を学び始めてよかったなーと思っています。
ここでこれ以上ダラダラしゃべるのも空気読めてないので、もうちょっと深い話はコチラ
というわけで本題に入りますが、前回はトムがジェリーにいたずらされたところまででしたね。↓
というわけで、信長が城の常識を変えたのですが、
前回の記事をまとめると、
- 実践的な防御技術の向上
- 政治・経済の拠点としての役割
- 山上から山城へ
- 織田信長による革命
って感じです。
信長が城の常識を変えた後、城はどのように移り変わっていくのか。秀吉が受け継いで、家康がガラッと変えるのか―!?(ネタバレです)
信長の肩に乗った秀吉
「巨人の肩に乗る」という言葉があります。どこかの頭のいいひとが昔言った言葉で、ニュートンがなんかで引用して有名になりました。
これまで人類が積み重ねた知識(巨人の肩)に乗ることで、新しいものを生み出す(さらに遠くまで見える)みたいな話。
そんな感じで(どんな感じだよ)、秀吉は信長の築城理念を受け継ぎます。
豪華な見た目、これまで城に使われなかった石垣や瓦などの特権などを用い、権力を誇示するとともに、複雑な道や囲いで防御システムを意識した城を築きます。
このような織田信長・豊臣秀吉の作った城を織豊系城郭と言います。
さらに秀吉は、信長の理念に少しだけアレンジを加えます。
遠方各地にネットワークを広げ、そこに織豊系城郭を建てることで、遠方にも権力を見せつけていったのです
合理的な家康
もし、自分ががんばって幕府を開いて教科書に載るようになったとき、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」なんて言われたら、「ただ待ってて天下とれるわけねーだろバカ!」って訴えると思います。たぶんそんな人は”泣くまで待とう”なんて言われません。鳴かぬなら文句を言おうホトトギス
さて、豪華な城を建てていた殺す人と鳴かす人と違い、家康は合理的に建てようと言い出します。
いち早く政権を握り、安泰な時代にしたい家康は、余計なものを排除した早く、安く築ける城を、江戸時代の城郭の標準形式として採用しました。
織豊系城郭の複雑化によるデッドスペースを減らし、合理的で効率的な土地利用。
低下した防御力を補う水堀や高石垣
過度な飾りを排除し、実用的にすることで、多数の城を同時に築けたため、ネットワークも組みやすかったのです。
そして幕府を開いた家康は、一国一城令を出します。1つの藩に1つの城とし、軍事力、資金力を弱めたのです。
これにより、数千あった城が175まで減ったとされています。
さらに武家諸法度により、城の新築を禁止。築城ブームが一気に冷め、衰退の一途をたどります。
まとめ
というわけで、まとめです
- 信長の理念を秀吉は受け継ぐ
- 家康による合理的な築城
- 江戸幕府の条令により城衰退
以上でーす
参考文献↓
図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防のすべて (サイエンス・アイ新書)
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